和田(古川)薫「薫ちゃん」が逝った。お悔み欄から知った。3月18日74歳は今の時代では若い。伝え聞くところによると病気だったらしいが・・・・・・・
この写真は2015年(平成27年)6月17日「KKRホテル札幌」でのクラス会の写真。当日は体調が良くなって元気にみんなと話し笑っていたのが目に浮かぶ。クラス会には毎回必ず出席していた。「薫ちゃん、薫ちゃん」とみんなから呼ばれていたのが思い出される。 合掌
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2022年2月24日ロシア軍がウクライナへ侵攻
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日本も20世紀に大きな誤りを犯し、破壊と殺戮の歴史を記した。その後半世紀以上平和を維持し続けてきた。この危機事態をどうすれば解決できるのか。制裁には制裁、禁止には反発、憎しみには憎しみ、不信には不信、負の連鎖がどこまでも深く続き解決の糸口が見えない。
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ロシアのウクライナ侵攻2年目
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2月24日で、ロシアのウクライナ侵攻が2年目にはいる。国連では3回目の『国連緊急特別会合』が開かれ、「ロシアに対してウクライナ侵攻即時停戦決議」が提案された。3回目になる決議案は、賛成141か国、反対7か国、棄権32か国、不参加13か国となり、1回目とほぼ変わりない評決になった。この決議案には何ら拘束力はなく、国連の機能不全をたださらけ出すことになったが、手を拱いているわけにはいかないだろう。そもそもプーチン大統領の被害妄想が端を発したのである。核兵器最大保有国に対してどう対処していけばよいか。人類に対しての大命題が投げかけられたのである。
政治家ではこの問題を解決できないだろう。自国の利益、自分の利益を優先する政治家は論議する資格はない。この戦争で勝ち負けはない。プーチンは認めないが、ロシアは2014年前に戻るべきだ。プーチンを説得できる人物はいないのか。
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喜寿祝い クラス会
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2023年4月26日 岩見沢ホテルサンプラザ
八年ぶりのクラス会が喜寿祝いの宴😄
お互いちょっと時間が経てば、あの時にタイムスリップ‼「○○ちゃん、▽▽さん、##」と当時の呼び名が飛び交っていた。
話題は体調や???や※※※やら、時間の経つのが早いこと。
卒業後62年。人生100年時代、お互いに健康寿命を伸ばして生きよう😃
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アフガニスタンで65万人の命を救った中村哲医師を思う
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2019年12月4日アフガニスタン東部ジャララバードを車で移動中、武装グループから銃撃を受けて運転手や通訳など5人と一緒に亡くなった。73歳で志半ばでの死は、無念だったに違いない。灌漑事業の進み具合を見回っていた途中のところだった。今一度、中村医師のとてつもなく偉大な足跡をふり返り考えてみたい。
中村医師は九州大学医学部を卒業後、医師として働いていたが、1984年キリスト教海外医療協会から派遣されパキスタン北西部のペシャワールでハンセン病を中心とする医療活動に従事した。
1991年、パキスタンから隣国アフガニスタンの険しい地帯ダラエヌール地区に初の診療所を作り、多くの人々の命を救った。さらに医療活動だけでなく、「水があれば救える命がある。」の信念でアフガニスタンに1600本の井戸を掘り、戦災と干ばつに襲われた国をなんとか救おうとした。
中村医師の活動を支援しているペシャワール会(PMS)について:
1983年9月中村医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で結成された国際NGO(NPO)団体。病気の背景には慢性の食料不足と栄養失調があることから、砂漠化した農地の回復を急務として灌漑水利事業に重点を置いて活動している。診療所、農業事業、灌漑事業、訓練所での技術の普及活動を進めている。この活動費はすべて寄付で賄われている。
1991年医師として派遣されていたパキスタンから、隣国アフガニスタンの険しい山岳地帯ダラエヌール地区に初の診療所を作り多くの人々の命を救っていた。しかも医療活動だけではなく、アフガニスタンに1600本の井戸を掘り、戦災と旱魃(カンバツ)に襲われた国を救おうとした。
2002年アフガニスタンは難民で溢れ、1万人~2万人の難民キャンプもあった。これまで掘った井戸の水位も下がり再掘削に追われた。しかし、パキスタン政府は地下水の枯渇を恐れ、井戸掘りの禁止を命じた。中村医師は大胆な方向転換を余儀なくされた。
2003年『緑の大地計画』で、アフガニスタンの東部を流れるクナール川から全長13キロの用水路を築き水を送り込み乾いた大地を潤す計画である。写真1列目左と右のもの。
中村医師の言葉『100人の医師よりは1本の水路が必要だ。』
2002年に現地に入り、初期の用水路建設に携わった川口氏は誰も経験のない当時は苦労の連続だったと振りかえった。「最初はスコップと人手で掘っていた。(写真3)何十年かかるのだろうと思った。1日に1ドルか2ドルの日雇いのお金を渡す。彼らにとっては貴重な現金収入だ。最初は100人から200人だったのが、400人から500人へと人手が増えて行った。中村医師は独学で重機の操縦を覚え、また土木工学を学習し水路の建設にあたった。水路そのものも先進国の技術で作っても、現地の人には補修ができない。中村は針金で編んだ籠に石を詰めて形を作る「蛇籠工」を用いることで、壊れても現地で修復できる工法に徹底してこだわった。(写真4)
工事の中でも最も困難を強いられたのが、川から水を水路に取り込む取水口の「堰」の工事だった。大量の土砂の混じる川の水、何度も濁流にのまれた堰。中村医師がたどり着いたのが福岡県朝倉市を流れる筑後川中流にある「山田堰」だった。これは江戸時代に築かれた取水堰である。
現地の人たちも変化が現れ、タリバンの戦闘員だった人や米軍に雇われていた人たちが武器をつるはしに持ち替えて協力するようになった。「自分たちの手で国を立ち直らせたい。また農業をやりたいんだ。」「農業ができるように 工事の中でも最も困難を強いられたのが、川から水を水路に取り込む取水口の「堰」の工事だった。大量の土砂の混じる川の水、何度も濁流にのまれた堰。中村医師がたどり着いたのが福岡県朝倉市を流れる筑後川中流にある「山田堰」だった。これは江戸時代に築かれた取水堰である。なれば子どもに食べさせることができる。出稼ぎに行かずに家族と一緒に暮らせるんだ。」現地の人たちの率直な声だ。
『アフガン問題とは、政治や軍事問題ではなくパンと水の問題である。「人々の人権を守るために」と空爆で人々を殺す。果ては「世界平和」のために戦争をするという。いったい何を何から守るのか。こんな偽善と茶番が長続きするはずはない。』(ペシャワール会報)
建設開始から7年たった2008年、13キロの予定だった用水路は、およそ倍の25キロまで伸び、完成した。「アーベ・マルワリード(真珠の水)」用水路。中村医師が手掛けた堰は9つにおよぶ。
両岸には柳の木を植え、根を張り巡らせることで水路をより強固にし、もし壊れれば住人たちが自力で修理を重ねた。
モスクとマドラッサ(学校)を建て、多くの子どもたちに学ぶ機会を与えた。