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2022年(令和4年)~2023年(令和5年)

2022年(令和4年)
2022年2月24日、ロシアがウクライナに軍事侵攻
日本も20世紀の初め破壊と殺戮の歴史があります。しかし、今、制裁には反発を、憎しみには憎しみを、不信には不信を、負の連鎖が先の見えない戦争へとなった。ウクライナとロシア双方に多くの死者が出ているこの戦争で、停戦への糸口がなかなか見えてこない。

国連総会で決議案

国連は、198か国の国連総加盟国による『ロシアに対する軍事行動の即時停戦を求める決議案』の採択が行われた。
賛成:141か国
反対:5か国(ロシア、ベラルーシ、北朝鮮、シリア、エリトニア)
棄権:35か国(中国、インド、アラブ首長国連邦、アルメニア、カザフスタン、キリギスタン、タジキスタン、モンゴル、他)
無意志:12か国(アゼルバイジャン、モロッコ、トルクメニスタン、ウズベキスタン、他)
写真は、国連総会議場の様子で、採決の結果が電子掲示板に出ている。

ポーランド、チェコ、スロベニアの首相キーウへ

3月15日(ポーランド)モラヴィエツキ首相、カチンスキーポーランド与党党首、(チェコ)フィアラ首相、(スロベニア)ヤンシャ首相の一行が列車でウクライナのキーウに入り、ゼレンスキー大統領と会談し、ウクライナへの支援を明言した。
同じことがいつわが身に降りかかってくるか、その覚悟の上での支持にはウクライナ国民に大きな励みを与えた。子どもや女性の国外退避に近隣諸国は十分な支援を続けている。

ゼレンスキー大統領日本の国会でオンライン演説

3月23日、ゼレンスキー大統領は、日本の国会でオンライン形式で現地とリアルタイムで演説した。衆参両院の議員を前に『ロシアの空爆で数十の町が破壊された。数千人が殺され、そのうち121は子供だ。』また日本の援助やロシアへの制裁について『建設的、原理的な立場をとっていただいた。アジアで初めてロシアに対する圧力をかけ始めたのは日本だ。』と謝意を示した。その上で『ウクライナに対する侵略の津波を止めるために、ロシアとの貿易禁止を導入し、各企業が市場から撤退しなければならない。』と禁輸措置を呼びかけた。

✇77年前、米軍は1945年8月6日8時15分「広島に原爆投下」、9日11時2分「長崎に原爆投下」✇
当時、広島市の人口約35万人のうち9万人から16万6千人が被爆から2~4か月以内で死亡したとされている。巨大な「キノコ雲」の写真は、投下した米軍機が撮影したもの。
1939年9月1日、第2次世界大戦が勃発。1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。1941年9月26日、アメリカが『マンハッタン計画(原子爆弾製造)』を進め、当時「ロスアラモス国立研究所」所長のジュリアス・ロバート・オッペンハイマーがマンハッタン計画を主導した。
 8月6日0時、気象観測機の「B29」3機がマリアナ諸島テニアン島の飛行場がら離陸、1時45分Mk-1核爆弾「リトルボーイ」を搭載した「エノラゲイ号」が離陸した。その後原爆の威力の記録をする科学観測機と写真撮影機の各1機、計6機のB29が原爆投下作戦に参加した。
 8時12分、エノラゲイが広島市の攻撃地点に到着し、目標の相生橋に向けて8時15分原爆「リトルボーイ」が投下された。高度600m上空で炸裂した原爆は、爆心地から500m以内で即死や当日死者が99%、1㎞以内で90%の死者がでた。
 当日、たまたま難を逃れた人が目の当たりにした光景は、『黒焦げになったおびただしい数の遺体』『痛いよう。熱いよう。助けて。』と泣き叫ぶ声が今も耳に残っている。『まるで地獄にいるような状況で、今でも時々夢を見ます。』と言っています。
 日本政府は8月10日、スイス政府を通じて抗議文を米国政府に提出した。
「……市街地区に対し新型爆弾を投下し瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を壊滅せしめたりは……米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り多数の老幼婦女子を殺傷し神社仏閣学校病院一般民家などを倒壊または消失せしめたり……従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たな罪悪なり……」
#広島の原爆は、ウラニウム型爆弾で、事前の爆発実験による検証がなされずに投下された。
爆風➡爆心地の爆風速は440m/s以上と推定され、音速349m/sを超える爆風で、衝撃波を伴い家屋のほとんどを破壊した。
熱風➡爆心地の地表が受けた熱線は通常の太陽の照射エネルギーの数千倍に相当するもので、地表温度は3000度~6000度に達した。
放射線➡大量のアルファー線・ベーター線・ガンマー線・中性子線の放射線の被爆者は即死また1か月以内に死亡し、5㎞以内の被爆者は放射線症により命を落とした。
8月9日午前11時2分、長崎市に2発目の原爆を投下した。当時の人口24万人のうち約7万4千人が死亡し、建物の36%が全焼または全破壊した。当初の第1目標は福岡県の小倉市(現「北九州市」)であったが、煙で視界が良くなかったことと日本の戦闘機が緊急発進したことで、第2目標の長崎市に変更した。この原爆の破壊力は広島を大きく上回り悲惨な地獄絵が繰り広げられた。
 長崎原爆の破壊力は、広島の1.5倍の威力で「ファットマン」と呼ばれ、全てのものを一瞬のうちに消滅しつくした。写真のキノコ雲も巨大である。
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●米国はなぜ2度も原爆を投下したのか?
●戦争は老若男女の一般市民の大量殺戮を容認するのか!
●戦争には「正義のための戦争はない」
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1945年8月、広島に原爆を投下したエノラ・ゲイ号副操縦士ロバート・ルイス大尉が搭乗日誌書いた:
『おお神よ、我々は何をしてしまったのか。』

1947年、マンハッタン計画を主導し、「原爆の父」と呼ばれた物理学者ロバート・オッペンハイマーが原爆投下を振り返り:
『科学者は罪を知った。』

1954年3月30日、物理学者湯川秀樹が第5福竜丸被爆を受けて、毎日新聞に寄稿した「原子力と人類の転機」で:
『20世紀の人類は、自分の手でとんでもない野獣をつくりだした。』

1958年2月、原爆投下を決断したトルーマン大統領が退任5年後の米テレビ番組で:
『良心の呵責(かしゃく)を感じなかった。』


2016年5月、オバマ米大統領が広島の平和記念公園を訪れて献花後の所感で:
『我が国のように核兵器を持っている国は恐怖の論理から脱し、核兵器のない世界を目指す勇気を持たねばならない。』

2019年11月、フランシスコ・ローマ教皇が長崎市の爆心地での演説で:
『ここは、核兵器が人道的にも環境にも悲劇的な結末をもたらすことの証人だ。』


 ◖ヤルタ密約◗ 1945年2月
英チャーチル首相・米ルーズベルト大統領・ソ連スターリン首相が第2次大戦の終戦処理について、ウクライナのクリミヤ半島南東部ヤルタで話し合われた。
・1944年12月14日、スターリンが米国ハリマン駐ソ大使に対日参戦を条件に、満州国の
益・樺太(サハリン)や千島列島の領有権を要求した。
ヤルタで1945年2月4日から11日まで行われた会談の中で、8日にスターリンはルーズベルトの宿泊先に訪れチャーチル抜きで双方少人数で会談した。ルーズベルトは太平洋戦争における日本の降伏にはソ連の協力が欠かせないと判断し、ソ連の要求に応じた。チャーチルは反対したが、対米関係の影響を恐れて最終的に秘密協定に同意した。
最終日の2月11日、「ヤルタ秘密協定」が文章化されて3巨頭が署名した。翌12日、ワシントン・モスクワ・ロンドンで発表されたが「極東事項」は秘密とされ、戦後の1946年2月になって明らかになった。
病弱のルーズベルトがわざわざ遠くソ連にまで行き会談に応じたことは、スターリンにと
っては主導権を握る絶好の機会であった。
会談後2か月あまりの4月12日ルーズベルト大統領は急死した。
◗1941年4月13日、「日ソ中立条約」締結。破棄の場合は1年前に通告する不可侵条約。
◗1941年8月、「大西洋宣言」米・英両首脳が第2次大戦における連合国側の指導原則
 で、「戦争によって領土の拡張は求めない。」
 ソ連は9月にこの憲章に参加した。
◗1945年4月5日、条約を延長しないと通告。しかし、条約は1946年4月25日まで有効。
◗1945年7月26日、「ポツダム宣言」勧告。連合国が日本の降伏を勧告する宣言で、英・
 米・中華民国によって作成され、ソ連は後から加わる。
◗1945年8月6日、米軍、広島に原爆投下。8月9日、米軍は長崎に原爆投下。
◗1945年8月9日、ソ連が対日参戦。
◗1945年8月14日、日本は「ポツダム宣言」受諾。(武装解除、非軍事化、民主化等)
 ソ連は日本のポツダム宣言受諾後も攻撃を続け、8月28日から9月5日までに北方4島(歯
 舞・色丹・国後・択捉)を不法に占領した。
◗1951年9月8日、「サンフランシスコ平和条約」調印(吉田茂首相)。1952年4月28日発
 効。ソ連はこの条約に調印しておらず、日本との平和条約は未だ結んでいない。
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※諜報戦の中で、いかに正確で大量の情報を獲得し分析しうるかが存亡に影響していることがいつの時代でも同じである。
1945年8月16日、スターリンは北海道北東部(釧路~留萌)を結ぶ直線以北をソ連占領地とするようトルーマン大統領に求めた。しかし8月18日トルーマンは即座に拒否した。
※日ロ間の領土の経緯
・1855年「日魯通好条約」
 ロシアは千島列島南端ウルップ島を国境界線として、択捉島以西は日本領であると確認。
・1885年「樺太千島交換条約」
 日本はこの条約で千島列島最北の島シュムシュ島からウルップ島までの18島をロシアから
 譲り受け、代わりに樺太全土を放棄した。
・1905年「ポーツマス条約」
 日露戦争後、樺太南部を譲り受けた。
2023年(令和5年)
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ロシアのウクライナ侵攻2年目
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2月24日で、ロシアのウクライナ侵攻が2年目にはいる。国連では3回目の『国連緊急特別会合』が開かれ、「ロシアに対してウクライナ侵攻即時停戦決議」が提案された。3回目になる決議案は、賛成141か国、反対7か国、棄権32か国、不参加13か国となり、1回目とほぼ変わりない評決になった。この決議案には何ら拘束力はなく、国連の機能不全をたださらけ出すことになったが、手を拱いているわけにはいかないだろう。そもそもプーチン大統領の被害妄想が端を発したのである。核兵器最大保有国に対してどう対処していけばよいか。人類に対しての大命題が投げかけられたのである。
政治家ではこの問題を解決できないだろう。自国の利益、自分の利益を優先する政治家は論議する資格はない。この戦争で勝ち負けはない。プーチンは認めないが、ロシアは2014年前に戻るべきだ。プーチンを説得できる人物はいないのか。
☆☆☆☆☆☆☆ 喜寿祝い クラス会 ☆☆☆☆☆☆☆
八年ぶりのクラス会が喜寿祝いの宴😄
お互いちょっと時間が経てば、あの時にタイムスリップ‼「○○ちゃん、▽▽さん、##」と当時の呼び名が飛び交っていた。
話題は体調や???や※※※やら、時間の経つのが早いこと。
卒業後65年。人生100年時代、お互いに健康寿命を伸ばして生きよう😃

◎求道者中村哲医師の偉業◎

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アフガニスタンで65万人の命を救った中村哲医師を思う
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2019年12月4日アフガニスタン東部ジャララバードを車で移動中、武装グループから銃撃を受けて運転手や通訳など5人と一緒に亡くなった。73歳で志半ばでの死は、無念だったに違いない。灌漑事業の進み具合を見回っていた途中のところだった。今一度、中村医師のとてつもなく偉大な足跡をふり返り考えてみたい。
 中村医師は九州大学医学部を卒業後、医師として働いていたが、1984年キリスト教海外医療協会から派遣されパキスタン北西部のペシャワールでハンセン病を中心とする医療活動に従事した。
 1991年、パキスタンから隣国アフガニスタンの険しい地帯ダラエヌール地区に初の診療所を作り、多くの人々の命を救った。さらに医療活動だけでなく、「水があれば救える命がある。」の信念でアフガニスタンに1600本の井戸を掘り、戦災と干ばつに襲われた国をなんとか救おうとした。
中村医師の活動を支援しているペシャワール会(PMS)について:
1983年9月中村医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で結成された国際NGO(NPO)団体。病気の背景には慢性の食料不足と栄養失調があることから、砂漠化した農地の回復を急務として灌漑水利事業に重点を置いて活動している。診療所、農業事業、灌漑事業、訓練所での技術の普及活動を進めている。この活動費はすべて寄付で賄われている。
1991年医師として派遣されていたパキスタンから、隣国アフガニスタンの険しい山岳地帯ダラエヌール地区に初の診療所を作り多くの人々の命を救っていた。しかも医療活動だけではなく、アフガニスタンに1600本の井戸を掘り、戦災と旱魃(カンバツ)に襲われた国を救おうとした。
2002年アフガニスタンは難民で溢れ、1万人~2万人の難民キャンプもあった。これまで掘った井戸の水位も下がり再掘削に追われた。しかし、パキスタン政府は地下水の枯渇を恐れ、井戸掘りの禁止を命じた。中村医師は大胆な方向転換を余儀なくされた。
2003年『緑の大地計画』で、アフガニスタンの東部を流れるクナール川から全長13キロの用水路を築き水を送り込み乾いた大地を潤す計画である。写真1列目左と中央のもの。
中村医師の言葉『100人の医師よりは1本の水路が必要だ。』
2002年に現地に入り、初期の用水路建設に携わった川口氏は誰も経験のない当時は苦労の連続だったと振りかえった。「最初はスコップと人手で掘っていた。(写真3)何十年かかるのだろうと思った。1日に1ドルか2ドルの日雇いのお金を渡す。彼らにとっては貴重な現金収入だ。最初は100人から200人だったのが、400人から500人へと人手が増えて行った。中村医師は独学で重機の操縦を覚え、また土木工学を学習し水路の建設にあたった。水路そのものも先進国の技術で作っても、現地の人には補修ができない。中村は針金で編んだ籠に石を詰めて形を作る「蛇籠工」を用いることで、壊れても現地で修復できる工法に徹底してこだわった。(写真4)
工事の中でも最も困難を強いられたのが、川から水を水路に取り込む取水口の「堰」の工事だった。大量の土砂の混じる川の水、何度も濁流にのまれた堰。中村医師がたどり着いたのが福岡県朝倉市を流れる筑後川中流にある「山田堰」だった。これは江戸時代に築かれた取水堰である。
現地の人たちも変化が現れ、タリバンの戦闘員だった人や米軍に雇われていた人たちが武器をつるはしに持ち替えて協力するようになった。「自分たちの手で国を立ち直らせたい。また農業をやりたいんだ。」農業ができるように 工事の中でも最も困難を強いられたのが、川から水を水路に取り込む取水口の「堰」の工事だった。大量の土砂の混じる川の水、何度も濁流にのまれた堰。中村医師がたどり着いたのが福岡県朝倉市を流れる筑後川中流にある「山田堰」だった。これは江戸時代に築かれた取水堰である。農業ができるようになれば子どもに食べさせることができる。出稼ぎに行かずに家族と一緒に暮らせるんだ。」現地の人たちの率直な声だ。
『アフガン問題とは、政治や軍事問題ではなくパンと水の問題である。「人々の人権を守るために」と空爆で人々を殺す。果ては「世界平和」のために戦争をするという。いったい何を何から守るのか。こんな偽善と茶番が長続きするはずはない。』(ペシャワール会報)
建設開始から7年たった2008年、13キロの予定だった用水路は、およそ倍の25キロまで伸び、完成した。「アーベ・マルワリード(真珠の水)」用水路。中村医師が手掛けた堰は9つにおよぶ。
両岸には柳の木を植え、根を張り巡らせることで水路をより強固にし、もし壊れれば住人たちが自力で修理を重ねた。
モスクとマドラッサ(学校)を建て、多くの子どもたちに学ぶ機会を与えた。
中村医師の尽力で住民たちの生活は大きく変わった。
「きれいな水が来るようになって、農場で牛に水を与えられるようになった。」
「昔はこの土地で育つ穀物が少なく、アヘン栽培に頼っていた。アヘン栽培のようなイスラム教の教えに反する行動が少なくなった。」と住民たちは語っている。
中村医師が手掛けた堰は、「マルワリード」を含めて9本に及んだ。
ある住人の父親は、自分の子どもに「ナカムラ」と名前をつけた。
カブールの空港で行われた追悼式で、アフガニスタンのアシュラフ・ガニ大統領が自ら中村哲医師の棺を担いだ。

以上の内容は、様々な報道機関の特集を抜粋したもの。「ペシャワール会」は、すべてが寄付によって活動が成り立っている。この寄付は減税の対象にはならない。中村哲医師の崇高な遺志がさらに推し進められるよう考えている人たちは、ぜひ協力を願いたいと思います。
「ペシャワール会」で検索するとわかります。

毛陽小学校跡「メープルロッジ

小学校の遠足と言えば、美流渡の町を過ぎて毛陽町の「毛陽小学校」へ行ったものだ。
2時間くらいかけて毛陽小学校のグランドに着き、ひと遊びして昼御飯だ。男子は大きなおにぎりにかぶりつき、女子は思い思いに友達が集まり弁当を食べる。食事をしている時の顔が1番いい‼またひと遊びをして帰りの途に就く。
「歩け、歩け、あーるけ歩け・・・」歌を歌って帰りの道を歩く。
現在は石碑が建物のあった所に残されている。
校舎跡には、「メープルロッジ」の宿泊施設が建てられ、食事など来訪者がある。写真がその建物である。

伊勢幸広君に立ち寄った

年ぶりに会った。去年の「喜寿祝いクラス会」に何年かぶりに出席して、幼馴染の級友と心ゆくまで話したことだろう‼
血圧が高いとのことだが、元気だ。奥さんにもお会いした。
当時住んでいた郵便局の辺りは、うっそうと草や木が茂り、炭鉱の坑口へ続く道は僅かに残っていた。当時のお風呂の跡も広場になっていた。
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